「どうして頑張らなきゃいけないんですか。」って言われたら

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頑張らなくてもできる人もいるし、頑張らなきゃできない人も、頑張ってもできない人もこの世の中にはいます 頑張り「すぎ」も良くないですが、頑張らなきゃ「いけない」時も悲しいかなあると私は思っています 例えば、赤点の追試、夏休みの宿題、入試、新人研修ー 挙げればきりがありません もっと言うと社会人になった後もやらなきゃ「いけない」ことがあります

ではなぜやらなきゃ「いけない」と大人は子供たちや若者に口を酸っぱくして言うのか

それは、若き彼ら彼女らを信頼していないからです 彼らを信頼していたら、「例え頑張れずドロップアウトし、大勢が進む道から外れてしまっても、この子なら芯を持ってしっかり道を切り開いていける」と思えます 頑張ら「なくてもいい」と肩を叩いてあげられます

でも、大人は怖いのです 自分の言葉に「責任」を持ちたくないのです 世間は、とか、社会は、とか、もっともらしい言葉で自分の意見「のようなもの」をもっともらしく述べますが、そんなものは嘘っぱちです その人の「意見」ではありません もう一度言います 大人は怖いのです 頑張ら「なくてもいい」と若者に本音を言って、若者が不登校になったり引きこもりになったり依存症になってしまったら、大人は自分を責めます 「私があんなことを言ったから」と 場合によっては他者から責められることもあるでしょう それは大人にとって何よりも怖く、リスクの大きいことなのです

私もその大人の1人であることを自覚していますが、その上で言うであろうことは、「『覚悟』をしなさい」ということです どんな道を選んでもいいが、その選択をしたのは他の誰でもない本人であるということを痛いほど認識しなさいということです 責任を持てず、誰かのせいにするくらいなら、何をやっても続きません それならレールにしがみついた方が間違いはない、と私は思います

でも、それを踏まえた上で、目の前のことをどうしても頑張り「たくない」のであれば、思い切ってそれを放って一旦休憩しましょう 何度考え込んでも「どうしても」と思うことは、その当人にとって、見直しを図るべきことです 感覚的なことで、これはとても難しいのですが、人生、頑張ら「なくてもいい」ことはあります というより、命さえあれば、苦しくても、生きていけはします 最低限のラインを若者が超えた場合、家族や社会の中から誰かしらの人物が、手を差し伸べてくれます それも、大人の「責任」だからです だから、覚悟をし、その後に「もうこれしかない」という気持ちで何か打ち込めることが見つかれば、どうにか生き延びていけます

全日制への通学を頑張ら「ない」という選択をしても、通信制への通学なら頑張「れる」かもしれません 進学を頑張ら「ない」という選択をしても、就職しての社会人生活なら頑張「れる」かもしれません

人生には教科書はありません 自己啓発本は人生の教科書ではありません あれは偉い人の広告文書です

人生には波があります 今は頑張れ「ない」と思っていることが、3年後には、頑張「れる」と思えるようになっていることがあります 形は違えど、当人の意志さえあれば、前に進んでいけます 休憩も、断念も、「進歩」なのです 人生は水平型エスカレーターのようなもので、皆は歩いてどんどん先に行ってしまいますが、止まっていても、前に進んでいるのです むしろ、後退するほうが大変です

私も、断念も休憩も何度も経験してきて身にしみることは、「しがみつく」ことの重要性です しがみつき、生き延びようとする生命力は、「覚悟」をすればするほど身についていきます

私たちは皆同じ水平型エスカレーターの上にいます 止まっていても結局前には進むのですから、肩の力を抜いて、でも自分の頭でしっかり考えて、進んでいきましょう

            あらい